お寺の未来のこれから

井出 悦郎

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このたび、(一社)お寺の未来総合研究所を設立しました。
設立の背景とあわせて、(一社)お寺の未来の今後についても、考えていることを記します。

まず今年度から、各法人の役割を整理しました。

(一社)お寺の未来 →『まいてら』の運営に特化 (未来の住職塾は別法人として独立)
(一社)お寺の未来総合研究所 →コンサルティング・相談業務、調査・研究を担う

概要は既にお知らせでも発表していますので、ご参照いただければ幸いです。

本稿ではこの背景を、前半部は事業的な側面から、後半部では個人的な体験・価値観の視点から記し、最後に私が考えるお寺というものについて述べたいと思います。
書いてみたら長文になってしまい、以下に本稿のポイントを記載します。興味が向いたら最後までお読みいただければ幸いです。

  • 多死社会に真摯に向き合う中で、お寺の本来性が豊かにイキイキと立ち現われてくる
  • お寺の未来は、『まいてら』と『総合研究所』の両輪で、生活者の視点を大切にしながら、お寺の悩み・課題に寄り添い、お寺とともに歩んでいく
  • 「祈りは生きる力である」という確信を大切に、個人的にも歩みを進めていきたい

『まいてら』は、お寺の未来の使命を体現するもの

(一社)お寺の未来が運営する『まいてら』は、お寺の未来を創業した理由そのものでもあります。
お寺の未来の使命は、

一人ひとりが良きお寺と出会うご縁を育み、あなたの安心に満ちた日々の歩みを支えます

というものです。
この使命は、お寺の未来が様々な取り組みを展開する際の、重要な判断軸でした。判断に迷った時、この使命に立ち返り、原点を確認することが多々ありました。
この使命は、お寺の未来にとって闇夜の大航海における北極星のようなもので、これから先もこの使命に導かれていくでしょう。

そして、「まいてら」は、お寺の思いと、生活者の思いをつなぐ結節点の存在であり、お寺と生活者が自由に出会う社会インフラの一つとして発展させていきたいという願いがあります。
変化の速い時代において、お寺と生活者の両側面の変化をしっかりと見つめながら、いずれかに偏重しすぎず、適切なバランスを取って世の中に価値提供していくことは簡単ではありません。
その課題に向き合うには、思いのあるお寺と生活者の双方が関わる運営体制を整えていく必要があると痛感しました。

  • お寺や仏教に思いのある人(お寺も生活者も)が関わる多様性のある運営体制を作る
  • お寺・生活者・社会にとって三方よしとなる、お寺の持続的なエコシステムを創出していく
  • エコシステムの創出にあたっては、日本人だけでなく海外の方々とのご縁結びも視野に入れる

これらを実現していくために、まいてら寺院はもちろんのこと、各界で活躍する専門家の方々にも運営に関わっていただきます。

まいてらも開設から2年が経ち、供養のみならず様々な形で生活者とのご縁がつながったという、お寺の声が増えてきました。
時には生活者からも感謝の声をお寄せいただいています。

その声を聞かせていただくのは、本当にうれしいこと。
もっとその声に出会いたい。
そのためにこそ、まいてらは存在しているのだと。

お寺の顔が見えるからこそ、安心して生活者はお寺とご縁を結ぶことができるのだと思います。
供養においては僧侶派遣では得られにくい安心感を含め、お寺とのご縁を通じた様々な安心を、まいてら寺院とともに社会に提供していきます。
新たな運営体制でギアを入れ替えて、まいてらは次のステージを目指します。

お寺の未来総合研究所は、お寺の悩みに寄り添う駆け込み寺を目指す

次に、(一社)お寺の未来総合研究所を立ち上げた背景です。
まず、(一社)お寺の未来がまいてらに特化する中で、それ以外の事業の受け皿となるということが一つの理由です。
ただ、それは技術的なもので、もっと本質的な願いがあります。

今まで、全国各地に足を運ぶ機会を通じ、多くのお寺とご縁をいただきました。
その中で、多くの住職の声に耳を傾けてきました。様々な場面を通じて優に1,000名を超える声を聴き、相談に応じてきました。

  • 地方寺院ほど濃密な関係性に囲まれた日常のため、地域視点に埋没しないよう、住職として世の中の流れや最新の情報を知りたい
  • 総代・檀信徒と率直に話せる関係だったとしても、住職(=トップ)だからこその悩み・孤独さがある
  • 様々な悩みが複雑に絡み合いすぎて、真の課題が分からなくなっている

多くの相談を受ける中で、このような要因が背景にあると感じます。
お会いする方とは一期一会と思い、経験・知識を総動員して精一杯お答えしてきました。
その中では、多くの批判もいただきました。

「君は専業寺院や大寺院しか相手にしていない」
「結局、東京の考え方だよ」
「お金がないお寺はどうしたらいいんだ」

万能ではありませんし、宗派でもないので、全てに応えることは不可能です。
でも、ご縁をいただいたお寺には、お寺の未来を育ててくれた感謝を込めて、できる限りのことはしていきたい。多くの批判をいただきながらも、その思いは消えませんでした。

そして相談を受ける中で、継続的に相談に乗るお寺も出てきました。
着実な成果を上げる経験も積み、次のことを強く感じるようになりました。

  • お寺を良くする一律解はなく、それぞれのお寺に合った個別解が具体化されること
  • お寺の状況によっては、数字も含めて実態を把握し、最適な助言と、時には現場にも入り込む支援を行なうこと

できれば全国7万のお寺に対して深い支援ができれば良いのですが、それは無理というものです。
では、どうするか。

  1. 地理や兼業状況に制約されないよう、情報やデータを積極的にインターネット開示
  2. 経済条件に縛られず、寺院運営に関するお悩みを気軽に相談できる、窓口機能を設置
  3. お寺を変革するための深い支援が必要な場合は、住職の伴走者としてあらゆるスキル・人脈を駆使し、成果を導く

まず、1については、2016年12月に行なった「寺院・僧侶に関する生活者の意識調査」を例として、お寺の現状についての定期調査を実施していきます。
零細法人でありながら100万円以上を投資して調査を行なっています。2018年度は「葬儀・お墓」をテーマにした調査結果を公表する予定です。
お寺が一歩踏み出そうと思った時に、地理性や兼職等の様々な状況が制約にならず、有意義な情報に出会えるよう、インターネットを通じて広く様々な情報やデータを開示していきます。
安心のお寺10ヶ条に基づく「安心のお寺診断」を無償公開していることも、この考え方の一環です。

2については、簡易相談という枠組みを設けました。
お寺の未来の社会貢献の一つとして、お金の多寡に関わらず、求めがあれば積極的に相談に応じます。
過疎地や兼業など、様々な条件下であってもお寺を維持していきたいという思いのある方に、少しでもお役に立ちたいと思います。
費用面はお気持ち制なので、形はお金でなくても良いと思っています。その日その場所で出会ったご縁にお互いが感謝し、その感謝を具体的な形で表せることができればそれで良いと思います。

3については、コンサルティングという枠組みを設けました。
知識・経験・人脈を総動員して、できることを全てやり、成果創出にコミットします。
とは言っても、金儲けのみが目的の案件はお断りします。「このお寺のために頑張りたい」という共感が湧いたお寺のみ、心が震える仕事として対応させていただきます。
関わったお寺の事例は、仏教界の共有財産として、できる限り具体的な数値情報も含めて開示していきます。

そして、お寺に対する社会からの要請が高度化する中、お寺が社会に存在している様々な専門性や思いと積極的につながっていくことが必要だと感じます。
そのために、簡易相談やコンサルティングでは、お寺のこれからを支えてくれるであろう、様々な企業や団体とお寺を積極的につなげていきます。
ドロドロとした人間模様や利害がうずまく、経営から現場までの実地経験も含めて、お寺と企業の両方の論理を深く知るからこそ、両者の適切な一致点を見い出し、具体的な連携を後押しできると考えます。
そして、様々なご縁から生まれる可能性の中から、お寺のために必要と思われることは、積極的に新規事業として取り組んでいきます。

総合力を駆使して、お寺の悩みに寄り添う駆け込み寺になること。

これが、(一社)お寺の未来総合研究所の目指すものであり、存在意義です。

個人的な体験と価値観:死・鎮魂・祈り

前段まで、これからのお寺に対して何ができるかという、事業的な側面について記しました。
これからは、その事業の背景にある個人的な価値観と体験について記したいと思います。

まず、今の活動の原動力となっている出来事があります。
それは、お寺の未来を創業して間もない、息子の死でした。

亡くなる直前に抱くことを許された息子の身体の温もりは今も手に焼き付き、息子の棺を抱いて歩んだ諸所の風景は生涯忘れることはありません。
息子の死の前後には、経験したことのない猛烈な自責の念や社会的な疎外感を味わい、目に映るすべての事象や物事がセピア色に見え、生きるということの実存が、天地鳴動の如くぐらぐらと大きく揺らぎました。
眠りから覚めた時、この現実が夢であってほしいと何度思ったことか・・・。
神仏なんて本当にあるのかという疑念も湧きましたが、やはり何かに祈ってしまう。本当に辛く、どうしようもなく追い込まれた時、人間は人知を超えた何かに祈らざるを得ないのだろうと感じます。それは仏教以前の人間のそもそものネイチャーだと感じます。
祈りが何かを実現したり、保証したりするかは分かりません。ただ、とても辛い時に、人知を超えた何かに祈りや願いを向ける行為は、生きる力を自らに取り戻し、新たな人生の物語を歩もうとする前向きな営みだと感じます。

祈りは、生きる力である。

自らの経験を通じて、そう確信します。

そして、様々なお寺と関わる中で、その根っこを考えるほど、「祈り」というものが大きな命題として現れてきます。
日本仏教の成り立ちを見ても、純粋な仏教論理として導入されたわけではなく、鎮護国家という役割から始まり、徐々に民衆化していく中で各地の土着性や慣習と結びつき、「祈り」「鎮魂」が日本における仏教の大切な役割になりました。
岐路に立った時こそ Back to the Basic ではないですが、お寺の原点を考えていけばいくほど、日本仏教の原点である「祈り」「鎮魂」というものに向き合い、そこから発想していくことが重要だと感じます。
この考えと発想は、どのお寺と向き合う際にも根底に置いていますし、昨今では東京オリンピックの開閉会式のテーマに、野村萬斎さんが「鎮魂と再生」を掲げられたことにも、日本の祈りが底流にあると感じます。

そして、「祈り」について考えるほど、自分の根底にある神仏習合的な価値観に気づかされます。
私自身はそれほど信仰心が篤いわけではありませんが、小さい頃から神社は身近な存在としてありました。母の実家が山形県の庄内地方ということもあり、出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)には小さな頃から登頂し、山頂の神社にお参りしてきました。羽黒山へのお参りは既に50回を超えています。

羽黒山に登ると、美しい庄内平野が一望されます。大地の実りを神仏に願い、実りを得て後、神仏に感謝するという、祈りと生活の循環。
大地をコンクリートの厚化粧が覆う東京という地で、その違和感に始終囲まれて育った東京人の私には、大地への祈りとともにある生活はとても素晴らしいものと感じます。地域のお寺を支えるということは、子どもたちの世代にその素晴らしい営みをつないでいくことに貢献することとも捉えています。だからこそ、過疎地のお寺を支えたいという思いも自然に湧いてくるのだと思います。

そして、言祝ぎの神社的感覚と、体系的かつ強力な論理を持つ日本仏教が、お互いの存在をエネルギーとして取り込み合いながら、各地域の土地に適した形で祈りを継承してきたのだと思います。
神仏習合の歴史を見ると、面白いことに神が仏になりたがろうとした時代もあったりと、神と仏は日本社会における精神性の両輪でした。
歴史の中で、西洋的近代化に向き合う過程で理屈(=頭)によって神仏分離が行なわれましたが、多くの日本人の身体の中には150年経った今でも神仏習合の感覚が残り続けていると感じます。
それはもっと言えば、多くの日本人の日々の生活レベルでは、頭においても身体においても、神様と仏様はどちらも大切ということだと思います。
どっちが大切ではなく、両方大切。このポイントは重要です。

とは言っても、神仏分離して150年も経ち、宗教法人も制度化されたことで、昔のような神仏習合には戻らないでしょうし、家庭の生活空間から神棚も仏壇も消えつつある中で、どのような具体的な形を伴って日本的信仰形態が伝承されていくのか、とても興味があります。

宗教社会学者であり住職でもある釈徹宗先生は、宗教がイキイキとしていくには、パトス(宗教的情念)ロゴス(理念)エトス(慣習)の3つがしっかりすることが大切とご指摘されています。
今、居住空間からは手を合わせる空間が失われ、エトス(慣習)が消えつつあります。
一方で、個人的な感覚ですが、この数年、様々な神社を通りすがると、参拝客が増えている気がします。
そして、みんな手を合わせて何かを祈っている。何を祈っているか分かりませんが、祈らずにはいられない雰囲気を感じることもあります。それは現代人なりに、現代のライフスタイルに合ったエトス(慣習)を模索している行為とも感じます。

このテーマ(どのような具体的な形を伴って日本的信仰形態が伝承されていくのか)には、仕事を超えたライフワークとして観察・思考し続け、できることには関わっていきたいと思います。

お寺って何だろうか?

最後に、(私の考える)お寺って何だろうということを述べます。
この問いには、様々な答えがありますし、答えの数が多いほど、お寺の豊かさを表していると感じます。なので、答えはみんな違って良いので、あくまでも一意見として捉えていただければ幸いです。

仏教と土着性を接続・融合し、
祈りと慈悲の共同体的な営みを通じて、
死者・生者に関わらず、一人ひとりの記憶と尊厳を伝承する、心の臨床現場

私が感じているお寺はこのようなものです。
土着性には、その地域に住まう人々の心や慣習だけでなく、神社やその土地に根づく様々な宗教的営みも含みます。ある種の雑多な宗教観にも前向きに向き合っていく役割が、そもそも住職やお寺にはあります。

今まで全国を回る中で、不思議に感じていたことがあります。
それは、仏教理念に基づく存在でありながらも、必ずしも仏教のみがお寺の上位概念になっていないという感覚です。
むしろ、言い方を変えると、仏教や雑多な土着性が渾然一体として出来上がっている「お寺」という存在そのものが上位概念ではないのかと。雑多な理念、人々の関係性、営みを含めてハード・ソフトが渾然一体となった「お寺」という存在そのものが全ての上位概念ではいのかと感じています。
なので、宗派仏教は個性として大切ですが、過去の歴史を見れば転派を繰り返したお寺も少なくないわけで、一つの宗派に閉じない広がりや自由さを、他宗教も含めてそもそも内包しているのがお寺ではないかと思うのです。
別に単立寺院化したり宗派を変わったりする必要はありませんが、それらも含めた宗教的自由度をいつも可能性として内包していることが大切ですし、神仏習合的な渾然一体とした日本人の宗教観にも合うと感じます。
そして、その宗教的に自由な柔軟性がいつも潜在的に確保されているからこそ、長期的にじわじわと変化しながら、長い目で見れば時流適合して、お寺は後世に存続しうるのではと思います。

とは言っても、「お寺」という上位概念に強い影響を与えている重要要素である仏教はどう位置付けられるのだろうという問いがあります。
まず、多くのお坊さんや、檀家さんも含む一般の方と仏教について話していると、「仏教」に込めている意味が人によってけっこう違うと感じます。

「諸法無我系」仏教
「祈り系」仏教

ざっくり分けると二種類の仏教があります。(話を分かりやすくするため、ざっくりでごめんなさい)

昨今の原始仏教やマインドフルネスに共感を覚える人が増えているのは、私の中では「諸法無我系」仏教と捉えており、教義に基づく様々なプラクティスも含まれます。
そして、土着性とも紐づく、先祖供養や様々な伝統的な儀礼は「祈り系」仏教と捉えています。

個々人の中で、この二種類が様々な比率で混じりあっており、お坊さんを見ていても、どちらが好きかという傾向があると感じます。
昨今の「諸法無我系」仏教のブームは、今まであまりにも後者に寄りすぎていた日本仏教に対する反省・反動の流れだとも感じます。
特に、現代は様々な要因により、生きづらさを感じる人も増えていると言われます。
様々なプラクティスや教えに触れることを通じて、生きづらさを緩和する視点のずらしや気づきを得ていくことは、仏教の真骨頂だと思います。
人生100年時代を生き抜く死生観を醸成するという点で、仏教への求めは益々高まるでしょう。

そして、私はしばらくの間は、日本が直面する未曾有の多死社会という課題に、お寺が全力で向き合うことが重要だと考えています。
この課題に向き合う先に、「祈り系」仏教と「諸法無我系」仏教が、お寺の独りよがりではなく、受け手にも納得する形で融合していくのではないかと感じています。

現代は、世帯の個人化と高齢化が同時進行し、家族に看取られて亡くなることができない人も増えています。そういう中で、「あなたの生きた記憶と尊厳を大切に保存し続けます」という安心感をお寺が提供していくこともはとても大切です。
日本の法律では死者の人格権は認められない中、死者の記憶・尊厳を保存・伝承する役割を、長い間、宗教が担ってきました。この領域を長く担ってきたお寺の役割はとても大きいと考えます。

しかし、単に伝統的な祈りの儀礼を行なっているだけでは駄目でしょう。お経マシーンと揶揄されてきた従来の姿と同じです。
多死社会において、一人ひとりが尊厳のある最期を迎えていくには、死生観がテーマとなります。
死生観を醸成するために、お寺は一人ひとりが生前のうちに積極的に接点を持つ必要があります。もっと言えば、一人ひとりと接点を持ちやすい、様々な機会や環境を工夫していく必要があります。
そのためには「祈り」だけでは難しく、教えを伝えたり、高齢社会に適したプラクティスを通じて死生観の醸成につながる取り組みが求められます。
ただ、一方で「祈り」が重要ではないかというと、そんなことはありません。「自分が死んでも、このお寺はこうやって祈り続けてくれるのだ」という安心感を目に見える形で伝えるという点で、「祈り」はとても重要です。「祈り」を十分に養分にできない「諸法無我系」仏教は、日本で生きながらえることは難しいでしょう。

「い」は、いのち(命)
「のり」は、のりと(祝詞)

を指すとも言われます。
一人ひとりが生命体として生きた命が、死後は大いなる自然のいのちとしてOnenessに回収されていく。逆に言えば、Onenessだったいのちが、たまたま物理的な身体を伴って、一定期間現世に表出したのが、私たち一人ひとりとも言えます。
そして、いのちの大きな循環を、お寺は土着性の養分を取り込みながら「祈り」という営みを通じて表象させていると言えます。

死んだら終わり
死んだらカルシウム

よく聞かれる言葉ですが、人間は自らの死を前にした時に、物語性のない死にどこまで耐えうるのかという疑問があります。
緩和ケア病棟で終末期患者の方々と向き合われた研究者のお話しを聞くと、「死んだ後に自分がどうなるかという信仰を持たれている方のほうが安らかに亡くなっていく傾向を感じる」とおっしゃっていました。
必ずしも仏教に限らず、他の宗教でも良いのですが、さすがに1,000年を超えて人間の生き死にを見つめながら編まれてきた物語を、現代という一瞬に生きただけの浅はかな知恵で否定することもおこがましいことと感じます。
独力で新たに1,000年を超える物語を生み出すことも一つの努力としてありえますが、それよりも人間社会が大切にしてきた時空を超える物語に乗ってみて、その大きな波に身を任せていく方が、死後も含めた安心感につながりやすいと思うのです。
そして、お寺には、「その波はとても安心できるものだよ」ということを、現代の人に伝わる具体的な形で伝えていく工夫が求められます。
そこにおいては「諸法無我系」仏教と「祈り系」仏教の両方が総合力として求められますし、お寺というものの本来性が豊かにイキイキと発揮されていくのではと信じてやみません。

色々とつらつら書いてきましたが、本稿をまとめます。

  • 多死社会に真摯に向き合う中で、お寺の本来性が豊かにイキイキと立ち現われてくる
  • お寺の未来は、『まいてら』と『総合研究所』の両輪で、生活者の視点を大切にしながら、お寺の悩み・課題に寄り添い、お寺とともに歩んでいく
  • 「祈りは生きる力である」という確信を大切に、個人的にも歩みを進めていきたい

貴重な時間を使って、長々とした駄文をお読みいただき、本当にありがとうございました。
ただ、これだけのことを伝えたいだけなのに1万字近くも費やしてしまいました。
それぞれの歩みの中で、どこかでお互いのご縁が重なる時があれば幸いです。
今後とも「お寺の未来」をどうぞよろしくお願いいたします。

井出 悦郎

(一社)お寺の未来総合研究所 代表理事。東京大学文学部卒。人間形成に資する思想・哲学に関心があり、大学では中国哲学を専攻。銀行、ITベンチャー、経営コンサルティングを経て、「これからの人づくりのヒント」と直感した仏教との出会いを機縁に、(一社)お寺の未来を創業。平成30年に当社設立

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